2013年08月12日

山の神

上高地.jpg
霊峰富士山はいつ眺めても美しく神々しい。山に登るなら穂高連峰と定めていたが、本格的な登山は未だ果たしていない。4、5年前だったか梅雨晴れに恵まれた上高地は最高の美しさでした。早朝、大正池から白樺・から松の林を抜けて真っ青な空のもと雪を残した穂高連峰を目の前にした時の感動は忘れられません。

とうとうと流れる梓川は手が切れそうに冷たく、青く清く澄んでいました。この美しい山や川の自然を大切に守って下さっている方々に感謝し、私たちはさらに次代に残してゆく努力をしなければならないと感じました。

昨日テレビで、富士山や日本アルプスの名山名峰へ登る登山者の大行列を見ましたが、山が怒りはしないかとちょっと心配になりました。山に登る時は山の神に手を合わせましょう。無事下山したらありがとうございましたとお礼を言いましょう。山を敬い感謝する心を持つことで、自然を汚さない、傷つけないマナーも守られると思います。

豊かな森を守ることは豊かな水を育むことと同じです。私の暮らす広島でも地元名産の「じごぜん牡蠣」を守るために、若者たちのグループが大田川源流付近での間伐や植林などの環境保全に乗り出しているとのこと。山に降った雨水や雪解け水が長い時をかけてろ過され多くのミネラルを含みながらやがて里へ川へそして海へと注ぎ、無数の生命を育んでいるということに思いを馳せながら山の神に感謝する次第です。

posted by ハルカ at 17:22| Comment(0) | 談義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月09日

梅干の紅は日本の色なりし

梅.JPG

紫蘇に染まった梅漬けを三日三晩の土用干しでさらに赤の色を増してしっかりと酸っぱさ(クエン酸)を包み込んだ梅を食しています。今年は気候が不順でしたので梅漬けは止めて、梅ジュースと梅ジャム、梅酢を作りました。この夏はこれらを三種三様に楽しみながら健康に過ごしています。梅は暑さを乗り切る最適の食べ物です。

梅研究家、松本紘斉先生の本を社長から渡され先生流梅干を毎年10kgを25年近く作ってきました。土用の入りから立秋までの間、庭一面の土用干しは真夏の風物詩でした。松本先生の土用干しは三日間は昼間ザルに広げて干し、夜は梅酢に戻す、そして次の三日間は夜干しをして朝早く取り込み梅酢に戻す。都合六日間で終わりますが、お天気な日ばかりではなく夜干しは特に大変でした。

空眺め祈るような夜干し梅  ─── 純子

先生いわく昼間干すことで消毒になり、夜戻すと干してしぼんだ梅に梅酢をしっかりと含んでくれます。また夜干しは夜のオゾンを十分に吸収して皮が柔らかくなりうま味も増して美味しく美しい梅になります(写真の先生の梅)。

ある年、夜干しを終える最後の朝、とり込み作業が遅れて陽が高くなる9時前頃になってしまいました。せっかく柔らかくなった梅が硬くなってしまいもう一度夜干しをすれば大丈夫と軽く考えていましたが、再度夜干した日は立秋にもなっており、硬いままで柔らかくはなりませんでした。これは私にとって大変貴重な出来事となり、自然と対話しながらの作業がいかに大切であるかという気づきになりました。以来、美容料づくりにおいてもこの自然からの教えを大切に守っています。

東京に暮らす娘は私が伝授した通りの梅干を毎年作っていましたが、福島の原発事故以来、外に干すことに懸念を感じ梅漬けのまま(土用干しを行わず)食しているようです。天候にも異変が生じ、昔ながらの土用干しもままならない状況に梅干の明日を心配する今日この頃です。
posted by ハルカ at 13:51| Comment(0) | 談義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月06日

原爆の日

8月6日が近づくと広島の街は騒々しくなります。昨日出かけてみると平和を願う様々な集会に参加される外国の方、他県の方達で一杯でした。

私は広島市内で生まれ育ちました。当時6年生で原爆は免れましたが、空襲が激しくなったため小学校3年生から6年生まで半ば強制的に疎開することになり、終戦の年の4月14日に県境の山間の小さなお寺に集団疎開しました。親元を離れ慣れない土地での生活でしたが、「欲しがりません勝つまでは」と歯を食いしばって女子の小隊長(当時の呼名)として下級生の世話をしたものです。

疎開に旅立つ前、仲良しだった一級上の範ちゃんと初ちゃんに別れを惜しみ指きりげんまんをして再開を約束しました。あこがれの女学校一年生になり、制服姿(モンペ)の笑顔が今も目に焼きついています。二人共原爆ドームの近くで学徒動員の作業中被爆し遺品はありませんでした。後日範ちゃんのお母さんにお会いしましたが、私を見てもう来ないでと言われ娘を失ったお母さんの心情を察しその後お会いすることはありませんでした。

私の父や母、姉は倒壊した家の下敷きになりましたが何とか這い出すことができました。逃げる途中、助けてくださいとの多くの悲鳴を聞き必死の思いで何人かを助け出しましたが、火がまわって来たので仕方なく海の方へと逃げたそうです。翌朝、一瞬にして焦土と化した街にはこの世のものとは思えない悲惨な光景が広がっていましたが、それを目の当たりにしながら家族や親戚、知人の消息を捜し求める数多くの人々が行き交い、さながらそれは地獄絵図のようであったそうです。

戦争が終わり疎開先から帰ると10月頃には焼け残った校舎で授業が再開されました。親を失った人や被爆して酷い火傷を負った者も多く、幼なじみの典子ちゃんも大好きだったお母さんを亡くしよほど辛い思いをしたのでしょう、涙も出さず口をつぐんで何も語ろうとはせず全く別人のようでした。あれから68年、8月6日の広島は反核・平和の聖地として大々的にクローズアップされますが、私どもにとってのこの日は多くの犠牲の上に今があることを感謝し、冥福をお祈りする一日として静かに過ごしています。
原爆ドーム写真.JPG
広島は七つの川からなり、淡水と海水が混ざり合った汽水域が特徴です。原爆ドーム直ぐ横を流れる元安川では毎年8月6日の夜に犠牲者を弔う灯籠流しが行われます。
posted by ハルカ at 16:37| Comment(0) | 談義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする