68年前の敗戦を思い返し、懐かしさと共に考えさせられるお盆休暇となりました。
当時私は広島県境の小さな村、久代村に集団疎開しお寺での寮生活を送っていました。
そこは敵機も飛んで来ない穏やかな山村で、村の人たちとともに田植えや麦踏み、炭焼きなどの貴重な生活体験をしました。
また不足する食料を補うために道端の酸い葉を吸ったり、イナゴなどの自然食材を糧とすることも覚えしました。
「8月6日広島全滅」の報せを聞くにつけ、家族を失った疎開児童もいるであろうことをおもんばかり、村の方達がお盆にかけて寮の子供達全員を各家庭に迎えて下さることになり、二人ずつで民家に宿泊しました。
お墓のお掃除をしたり、仏壇にお参りしたりと家族の一員として受け入れていただき、ちらし寿司やおはぎをお腹一杯食べさせてもらい大変うれしかったことを覚えています。
しかしお盆の15日のお昼時になるとその空気は一変、宿泊先の方たちとラジオの前に座り、かすかな玉音放送に耳を澄ましました。
しばらくすると殺気立った村の人々が日の丸のはちまきを締め竹槍を手に役場に終結しました。私たちは何が起きたのかよくわからないまま疎開先のお寺に帰り、本堂で先生から戦争に敗れたこと、広島が大空襲にあったことを聞かされ皆で泣きました。
先生は歴史の教科書、修身の教科書を出され、これらの本は今後無くなるであろうから、これからは一項ずつしっかりと勉強し、心に留めておくようにと言われ、戦争には負けたが日本人としての誇りを持ち、その心に恥じない生き方をしていってほしいと告げられました。
それからしばらくは、毎日午前中本堂に集まり、皆で「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」と唱えながらの授業が続けられました。
私たちは生き残った者の義務として戦後の時代を不屈の精神で生抜き、比類ない高度成長を成し遂げました。あの時の歴史・修身の教科書の教えは一見遠くへと過ぎ去ったかのように思えますが、その高貴な精神は是非とも後世へと語り継ぎたいものであると感じています。
【関連する記事】