2013年08月06日

原爆の日

8月6日が近づくと広島の街は騒々しくなります。昨日出かけてみると平和を願う様々な集会に参加される外国の方、他県の方達で一杯でした。

私は広島市内で生まれ育ちました。当時6年生で原爆は免れましたが、空襲が激しくなったため小学校3年生から6年生まで半ば強制的に疎開することになり、終戦の年の4月14日に県境の山間の小さなお寺に集団疎開しました。親元を離れ慣れない土地での生活でしたが、「欲しがりません勝つまでは」と歯を食いしばって女子の小隊長(当時の呼名)として下級生の世話をしたものです。

疎開に旅立つ前、仲良しだった一級上の範ちゃんと初ちゃんに別れを惜しみ指きりげんまんをして再開を約束しました。あこがれの女学校一年生になり、制服姿(モンペ)の笑顔が今も目に焼きついています。二人共原爆ドームの近くで学徒動員の作業中被爆し遺品はありませんでした。後日範ちゃんのお母さんにお会いしましたが、私を見てもう来ないでと言われ娘を失ったお母さんの心情を察しその後お会いすることはありませんでした。

私の父や母、姉は倒壊した家の下敷きになりましたが何とか這い出すことができました。逃げる途中、助けてくださいとの多くの悲鳴を聞き必死の思いで何人かを助け出しましたが、火がまわって来たので仕方なく海の方へと逃げたそうです。翌朝、一瞬にして焦土と化した街にはこの世のものとは思えない悲惨な光景が広がっていましたが、それを目の当たりにしながら家族や親戚、知人の消息を捜し求める数多くの人々が行き交い、さながらそれは地獄絵図のようであったそうです。

戦争が終わり疎開先から帰ると10月頃には焼け残った校舎で授業が再開されました。親を失った人や被爆して酷い火傷を負った者も多く、幼なじみの典子ちゃんも大好きだったお母さんを亡くしよほど辛い思いをしたのでしょう、涙も出さず口をつぐんで何も語ろうとはせず全く別人のようでした。あれから68年、8月6日の広島は反核・平和の聖地として大々的にクローズアップされますが、私どもにとってのこの日は多くの犠牲の上に今があることを感謝し、冥福をお祈りする一日として静かに過ごしています。
原爆ドーム写真.JPG
広島は七つの川からなり、淡水と海水が混ざり合った汽水域が特徴です。原爆ドーム直ぐ横を流れる元安川では毎年8月6日の夜に犠牲者を弔う灯籠流しが行われます。


posted by ハルカ at 16:37| Comment(0) | 談義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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