毎年元旦に主人(社長)は初日を拝した後、その年の思い、願いを言葉にして年賀状に書いておりました。平成28年の元旦の言葉は「始生」としたためてありましたが一通もお出ししないまま辞世の言葉となりました。始生の意は辞書にもなく、今生を終わる(死)ことは、次なる生への始まりなのだと悟っていたのではないでしょうか。
二カ月余り日々衰えてゆく身体を気力で精一杯生き抜き、四月五日満開の桜の中、九十年の生涯を終えました。穏やかな立派な最期でした。
しばらくは遺品の片付けなどは何も手につかずただ目の前の仕事に明け暮れる日々でしたが、初盆も過ぎてようやく整理をはじめた頃、主人が遺したたくさんのメモの中から一枚の書き物が出てきました。その内容は、最高の親に恵まれた、最高の師に恵まれた、最高の友に恵まれた…最高の人生に恵まれたといくつも繰り返され…そして最後にありがとうございましたと結ばれていました。感謝の気持ちで生きることをとても大切にしていた夫らしいメッセージだと胸が熱くなりました。
主人は昭和元年一月に生を受け、子供の頃より両親は文武両道(日本軍人として)で厳しく教育していました。早くに孫子の兵法にも親しみ、憧れの海軍兵学校に入校時にも検閲を受けて持参したほどです。その「兵法孫子」─北村佳逸著(昭和17年版)は今でも主人の書庫に大切に保管されています。
二十歳の青年将校(海軍中尉)の時に終戦を迎えましたが、入隊後わずか数年で戦局も末期となり、兵書の教えの実戦もままならずその本質を十分に理解できぬままであったことを大変無念に思い、戦後も孫子の研究を続けてその教えを実戦に応用すべく地元企業の相談役として経営戦略研究所を設立。昭和36年〜昭和43年の間、本業である化粧品メーカーの社長業の傍ら次々と成功の糸口を築いていきました。
しかしいつの頃か孫子は勝つことを教えたのではなく、その理は不敗の極致であり、即ち「戦争はするな」と教えたものだと悟り、その後 孫子の研究に終止符を打ち、「人知以前の世界」への研究と進んだのです。そしてその中で悟ったのが、漢萌の“いのち”の美容の根本とも言える「自然(じねん)にまかせれば自然(じねん)が教える」という哲理だったのです。